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ローマ皇帝アウグストゥスの生家 |
古代ローマの遺跡群 パラティーノの丘で
ローマにて、初代ローマ皇帝アウグストゥス(紀元前62〜紀元14年)の生家と思われる遺跡が見つかりました。
遺跡や周りの様子が、歴史家の述べるところと一致しているとのこと。 この遺跡はパラティーノの丘の一角でコロッセオの近く。 地下3メートルほどの層に、紀元前1世紀頃のものと観られる建物が現れました。
古代ローマの歴史家スエトニウス「ローマ皇帝伝」に、こうあります。 『パラティーノの丘にある<カピタ・ブブラ>と呼ばれる場所で生まれた。そこには神殿があった。』 今回見つかった建物の隣に動物などをいけにえをささげたと見られる神殿があり、文献と一致します。建物は入り口付近に網目模様の壁があり、床には美しいモザイクがある豪華なものでした。 堆積していた層から見つかった遺跡などから、ネロ帝のローマ大火(紀元64年)まで、建物は使われていたと考えられます。 アウグストゥスは、アントニウスとクレオパトラ との戦いに勝ち、ローマを平定しました。 オクタヴィアヌスであった彼に、元老院からアウグストゥスという称号と名が与えられました。
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ピラミッドのふしぎ |
ピラミッドとエジプト文明
想像してみてください。夜空に浮かぶオリオン座の三つ星。

エジプト文明を調べていくと、書きたいことが多すぎてまとまりませんでした。 ですので、ピラミッドに関する事柄のごく一部を取り上げようと思います。
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オーストリアのママ |
女帝 マリア・テレジア
マリア・テレジアはハプスブルク家の生まれです。 その父は、神聖ローマ帝国皇帝カール6世。カール6世は、娘のマリア・テレジアを可愛がり、自由にのびのびと育てました。 ハプスブルグ家は男系相続の家系でしたが、父の意向により、マリア・テレジアは多くの領地を相続したのです。また、イギリスやフランス相手に堂々たる外交をしました。 彼女は幼馴染のフランツと、当時は珍しい「恋愛結婚」で結ばれました。(男5人・女11人)16人もの子供に恵まれ(うち成人したのは10人)、その中には、あの マリー・アントワネットも含まれます。 わがまま放題で育った娘、マリー・アントワネットの身を死ぬまで心配していました。
老いてからは、嫁たちに色々と文句を付けるなど、人間味あふれる「女帝」です。
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猿人・アウストラロピテクス |
わたし達の祖先の歯!?
カリフォルニア大バークリー校などの研究チームが、 エチオピアにて約420万〜410万年前の地層から人類の祖先とされる猿人・アウストラロピテクスの初期の化石を発見したらしいのです。 猿人の進化の系統を探る上で重要な手掛かりになるということです。 (4月13日に発表)
化石は歯の特徴からアウストラロピテクス アナメンシスと呼ばれる種類と判明しました。 現場周辺では約440万年前のラミダス猿人と、約350万年前のアウストラロピテクス・アファレンシスの化石がそれぞれ見つかっていたので、 これらとの比較から、ラミダス猿人から約20万年の間に急激に進化し、アウストラロピテクスが誕生したという仮説を提示できる、とのこと。 20万年というと膨大な時間に感じますが、猿人進化で言えば非常に短く、急激な進化といえます。 (右写真はアウストラロピテクス・アフリカヌスです。)
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「わたしを裏切りなさい」 |
幻のユダの福音書 少し古いですが、書きたかったので。 米地理学協会は、約1700年前に書かれた初期キリスト教の外典「ユダの福音書」の写本を解読し、公開しました。 新約聖書には、イエスの弟子であるユダがイエスを裏切り、刑吏に引き渡したと記載されていることは有名なお話です。 しかし、今回解読された「ユダの福音書」では、イエスがユダに対し、自分を裏切るよう命じていたと書かれてあり、キリスト教理解に大転換を促す内容になっています。 この古写本はギリシア語で書かれた原本のテクストを紀元3〜4世紀に古代コプト語(?)に移し替えたうえでパピルスに記録されたもので、66ページに及んでいます。 放射性炭素測定やインク分析などを使った徹底的な分析を経て、本物と認定されました。
 この写本には、イエスがユダに対し、 「お前はわたしを包んでいるこの男を犠牲にする」と述べたとあり、 イエスの肉体からの離脱を手助けすることによって、ユダはイエスの内部にある聖なる「セルフ」の解放を手伝ったと解釈されるというのです。 写本は1970年代にエジプトで見つかり、その後各地を転々としました。 キリスト教を解する重要なものですね。 正直、幼い頃からの知識を否定し得るこの写本には、驚かされました。
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江戸時代中期の名奉行 |
大岡越前守忠相(大岡越前)の生涯
大岡越前(1677年〜1752年)は、後に大名になる江戸幕府の家臣です。 越前守だったことから大岡越前とも呼ばれますが、忠相というお名前です。 時代劇でおなじみの名奉行。江戸生れです。 書院番、目付などの役職を経て、1711年に能登守、 1712年に伊勢山田奉行に就任しました。 在任中に山田(今の伊勢市)と松坂(今の松阪市)の住民の訴訟を扱ったときのこと、 就く前は紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁きました。
遠国奉行を経て江戸町奉行というのは当時の順当な昇進コースで、 意外にも、特別に抜擢されたというわけではありません。 1716年に吉宗の将軍着任にともなって、1717年江戸町奉行になりました。 1718年に町火消制度を制定。 1720年に町火消「いろは48組」を編成。 目安箱や投函された意見を受けた小石川養生所の設置、 株仲間の公認などで享保の改革を推進したうちの一人で、 江戸時代の行政担当幕府家臣としても一流の人のようです。 1736年には寺社奉行に出世。1748年には西大平(今の岡崎市)1万石を領し大名になりました。 町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて大岡越前一人だけです。 1751年、病気により辞し、同年6月吉宗が、12月忠相が亡くなりました。
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